(著者:Shunya Ohira)
「貧しい国」とは・・・。
敢えてシンプルなタイトルで、
いわゆる「貧しい国」について考察します。
この記事全体の構成
・世界の貧しい国ランキング
・世界一貧しい国
・貧しい国の生活
・日本は貧しい国になる
・貧しい国の食事
・貧しい国にできること
・シエラレオネ
・貧しい国の子どもたち
ここにあるのは、世界の貧しい国ランキング。このランキングを見た時に、あなたは何を感じるだろうか?
10位 マラウィ
9位 シエラレオネ
8位 エリトリア
7位 中央アフリカ
6位 ニジェール
5位 ソマリア
4位 リベリア
3位 ブルンジ
2位 ジンバブエ
1位 コンゴ民主共和国
まず、アフリカの国が多くランクインしていることがわかる。
その他に、必ず考えて欲しいことが一つだけある。それが、“何を指標として、貧しい国ランキングがつくられているのか”。今回指標として使ったのは、GDP(国際総生産:一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額)だ。各国のGDPを並べていくとこのようになる。
マラウィ:$906.65
シエラレオネ:$820.04
エリトリア:$795.20
中央アフリカ:$788.00
ニジェール:$687.02
ソマリア:$631.87
リベリア:$440.66
ブルンジ:$407.73
ジンバブエ:$349.61
コンゴ民主共和国:$347.45
source: Statistic Brain
世界一貧しい国とは、どこなのか?これを考える時に、ポイントとなるのが、“何を指標として話を進めるのか”。貧しいという言葉は非常に曖昧なので、これをはっきりさせることが最初の一歩だ。例えば、『車を最低でも2台持っていないと、その生活は貧しい。』と言う人もいれば、『車を一台でも持っていれば、十分貧しくない。裕福だ。』と言う人もいる。
指標を設定することで、「世界一貧しい」と思われる国を考えることが可能になる。例えば、このような軸を決めることができる。
・GDPで見た、世界一貧しい国
・購買力平価説を使った、世界一貧しい国
・平均寿命で見た、世界一貧しい国
・乳幼児死亡率で見た、世界一貧しい国
国の経済状況を見て、貧しいかどうかを判断する。寿命の長さを見て、貧しいかどうか検討する。さらには、生まれて5年以内の赤ん坊が死亡してしまう割合から、貧しさを考えることもできる。
もちろん、これ以外にもあらゆる指標を使って、「世界一貧しい国」について考えることが可能だ。「貧しい国」と一口に言っても、そこには色々な意味が含まれている。どのような貧しさについて話しているのか。これを常に意識するようにしたい。
注)この記事では、GDPのランキングで見た「貧しい国」のことを、省略して、「貧しい国」と表記する。その中でも、シエラレオネ、ジンバブエ、リベリアの三国での実体験を中心に話を展開していく。
「貧しい国」では、そこに暮らす人々はどんな生活をしているのだろうか。恐らく私たちが想像する、「貧しい生活」は、こんなものだろう。
住:住む家は、小さく、壁には穴があいている。隙間風が入り込んで、夜は冷える。
衣:着る物も祖末で、虫食いが至る所に見える。
食:家族全員でひとつのパンを分け合う。水は、数十キロ離れた水汲み場から。
このような生活を強いられている人は世界中にいる(上の項目がいくつ当てはまるかの違いはある)。もし、“大きくて、壁に穴があいていない家に住んでいるかどうか”という指標を使えば、上で言ったような生活をしている人々は貧しいということになる。しかも、相当な貧しさである。なぜなら、指標の示す「貧しい生活」の条件を全て満たしているからだ。
さて、ここで、気をつけたいのが貧しさの程度。極端に貧しい生活をしている人だけが、「貧しい」人なのかどうか。結論から言えば、誰だって、貧しい一面は抱えている。ある特定の国や地域の話をすると、特にこの事実は見落とされがちだ。
例えば、パリという言葉から何を想像するだろう。エッフェル塔やシャンゼリゼ通り、カフェでクロワッサンを頂く優雅なひと時。通りの隅で生活する路上生活者の事を想像する人は100人に1人いれば、多い方だろう。
先に、(GDPを指標とした)貧しい国ランキングを発表したが、ここで誤解はしてほしくない。リベリアにも、コンゴ民主共和国にも、裕福な人はいる。「貧しい国」という全体としての括りをしてしまう際には、細心の注意を払いたいところだ。
さらに人、一人を考えてみても、ある見方をすれば、貧しいが、他の見方をすれば貧しくないということもある。例えば、有名な大学を卒業し、弁護士になった人がいるとする。一般的に弁護士の稼ぐお金の量は、「多い」とされている。(この「多い」という表現も曖昧だが)仮に、収入が十分であったとしても、仕事を軌道に乗せるために必要な支出が高い可能性もある。特に、弁護士などのクライアントを持つ職業は、身なりなどにお金をかける必要がある場合が多い。つまり、収入を見れば、裕福だけど、資産(貯蓄額)を見ると貧しい生活を強いられている可能性などいくらでもあるということだ。
テレビのニュースでこんな光景を目にした。
「貧しい国」の少年が、学校に行かずに、朝から晩まで仕事をしている。彼は、日本で言うところの高校1年生にあたる年齢。仕事を終えて家に帰ってくるのは、夜中の10時。次の日は5時に起きなければならない。彼を見たあなたは、どう思うだろうか?きっと、貧しい家庭に育ったのだろう。だから、働かなければならないのだ。そう、予想してはいないだろうか。
しかし、彼の生活が貧しいかどうかはわからない。もし、こう付け加えたらどうなるだろうか。彼の年収は10億円。彼が、学校に行かずに働いているからと言って、貧しいとは限らない。
テレビの番組やCMでは、「学校に行かずに家庭を支える、貧しい生活をするこども」が頻繁に取り上げられる。なぜだろうか。視聴者の共感を得られるからだ。必ずしも、これが全ての理由という訳ではないが、主要な背景であることは間違いない。「貧しい」という言葉で、物語が語られる時に、それを語る主体(メディア)が何であり、何を目的としてそれを発信しているのかに注目することは最低限必要な心構えかもしれない。
※下にある動画は、「貧しい国」という印象を強調して作成したもの。
日本は貧しい国になる。そう考える人はどれくらいいるだろうか。これに関しても、どのような指標で話を進めるのかが重要だろう。(経済の視点から)日本の国際競争力が低下しており、バブル期の日本経済への賛美として使われたJapan as Number One というフレーズは嫌みを込めて使われる時代になってしまった。
Bloombergを通して、藤巻健史氏は次のように述べている。
“「ユーロがデフォルトになるより日本が先」「破綻は最短5年で発生」、その際には「1ドルは500円から600円」になり、10年ものの「長期国債の金利 は80%をヒット」するだろう”
“「何故ならIMFの試算では2014年には、日本の債務はGDPの245%に達するからだ」”
藤巻氏は、以前から一貫してこの姿勢を貫いているとのこと。投資家は、発言を大げさにすることによって相場を動かそうとすることがあるが、今回の主張は、そのようなものではないと、冷泉彰彦氏は言う。
現に、日本全体の財政赤字は、(2013年11月25日現在)1263兆円を越えている。このように、財政の面から見れば、既に日本は貧しい国になっているかもしれない。
ただ、単に“景気が悪い”という決まり文句を使うメディアに流されて、日本は貧しい国になるだろうという考えに至るのだけは避けたい。
「貧しい国」の食事は、やはりシンプルで質素なイメージがある。一日を生きていくために、ギリギリのお金で生活している人と会う機会はよくある。仮に、彼らを「貧しい国」の人々とした場合の話をしよう。
「貧しい国」の食事は、概して“安い値段で満腹感を得る”ことに特化していることが多い。というのも、簡単なつくりの小屋で営まれている食堂に入ると、そのような食事に出会うことが多い。逆に言えば、少ない量で、高い値段の食事を提供するレストランがある地域に住む人は、食事にかける十分なお金を持っていると言えるだろう。
「貧しい国」は、その国の農業が発展していない場合が多い。食事の材料となる植物を育てるのに適している土地ではないので、結果的に、効率的に食べるものを手に入れることが難しい。そもそも農業は、ユーラシア大陸の肥沃な三日月地帯で 始まったと考えられている。そこから農業に適した品種(あくまでも肥沃な三日月地帯での農業に適した品種)が伝わる。例えば、アフリカに渡ってきたそれら の品種が、全て栽培されるのかと言ったら、そうではない。アフリカの地でも育つことができる種が残っていく。仮に、アフリカの地で育つことができる種のこ とを「たくましい食材」と呼ぼう。この「たくましい食材」が、アフリカでは主な食事となることが多い。例えば、ヤムイモや豆類などが挙げられる。
左から、キャッサバの根、ヤムイモ、豆、キャッサバの葉でつくったソースをかけたライス。
「貧しい国」では、食事の時間が非常に大事にされている。もちろん、どの国であっても食事は大切だが。「貧しい国」 の人々は、食事にあまりお金をかけない生活をしている。しかし、ケチではない。シエラレオネの路上に一つの屋台があった。そこでは、イモの一種をすりつぶ してつくった白米のようなものの上に、 キャッサバの葉でつくったソースをかけて食べる食事が提供されていた。美味しそうだったので、私も頂く事に。プラスチック製の不安定なイスに腰掛け、注文 する。(注文の際は、メニューから選ぶというよりは、『このお金で食べられるだけの量で、よそってください』という具合)そこの店の女性が、皿に盛りつけ るその前に、隣にいた男性が声をかけてきた。
『私はもうお腹がいっぱいなので、食べてくれ。』彼の差し出した皿には、まだ6割ほど食事が残っている。驚い て、どうしようかしばらく考えたが、最終的に一緒に頂くことにした。『一緒にたべましょう。』と私が提案すると、彼は、微笑んで、また食べ始めた。その食べっぷりは、決して、「お腹がいっぱい」な人のものではなかった。「貧しい国」に住んでいる彼が、いわゆる「裕福な」国に住む私に食事をおごってくれた。
『貧しい国のために、何かできることはあるだろうか?』このように考える人が増えてきている。特に、若者の中からこのような気運が高まっている傾向にある。非常にいいことだ。
興味深いことに・・・“「貧しい国」のためにできることがあるかどうか”に関して、人々の意見は、大体、二つに分かれる。ここに紹介するのは極端な例なので、もちろん、その中間に位置している人もいる。
1. 自分のできることをやろう派:“貧しい生活をしている人のために、自分はなにができるのか考え行動”
2. 偽善をしてもしょうがない派:“貧しい人について語る前に、目の前の事に集中”
こうやって見比べてみると、どちらの考えも間違っていない気がしてくる。肝心なのは、正解なのか間違いなのかではなく、両者のよい部分を汲み取ることだろう。仲良くしましょう、と言うだけでは何も始まらないので、こんなポイントを整理してみよう。それが、“ジレンマを感じることになる瞬間”。それぞれが、ジレンマを感じがちな瞬間を知ることで、それを未然に防いで頂きたい。
1. 自分のできることをやろう派のジレンマ
・果たして、本当に貧しい国の人の役に立てているのか考えてしまう。
・自分の周りの人を幸せにすることがおろそかになっているのではないか。
・偽善と言われれば、そんな気もちょっとだけする。
2. 偽善をしてもしょうがない派のジレンマ
・なんだかんだ言って、「貧しい国」の人のためになることはしたい。
・行動を起こせている人がうらやましいと心の片隅では思っている。
・“「貧しい国」の人のために”というフレーズを言ってみたい。
これが、全てあてはまるかはわからない。しかし、多かれ少なかれ、このようなジレンマを抱えながら、“「貧しい国」のためにできること”はないか議論が成されているような気がする。
さらに、言えば、この二者は、同一人物にもなりうる。ある時期には、前者の気持ちになり、ある時期には、後者の考えが頭を満たす。「貧しい国」の人になにができるかというテーマは、混乱を招きやすい。
本当に大事なのは、「貧しい生活をする人」がいるならば、その人の生活をどのようにして、改善するのか。それを行う人同士が言い合っていては何も始まらない。
もし、あなたの中に、両者が見え隠れしている場合、それについて思考しすぎず、行動に移す事を強くお勧めする。具体的なステップは後に示す。
“「貧しい国」にできること”についての論争をする必要はない。相手のためにやっているのか、それとも、偽善でやっているのか。これを考えている時点で、残念ながら、「貧しい国」の人々からは遠いところにいる。貧しい人が箱の中に住んでいて、それを上から眺めている巨人みたいだ。自分たちの裁量次第で、彼らを変えることができる、とでも言っているかのよう。
『簡単にお金をあげたら、それに気をよくして、自分で働くことを止めてしまうので、「貧しい国」 の人々には、与えない。彼らが自立できる道を探そう。』この発想は素晴らしい。素晴らしいのだが、ともすると、“上からの目線”になりがちだ。友人に、何 か食べ物をあげる時に、『この人が自立するためには・・・』と考えるだろうか。“上からの目線”になっていないか、常に自分を見つめ直すことをやめない限 り、“自立の道を一緒に探す”という考えは素晴らしい。
もっと、簡単に考えてみよう。何かしたいと思ったら、その相手と仲良くなればいい。この記事では、「貧しい国」の例として、シエラレオネやリベリアといった国を挙げている。シエラレオネの誰かのためになりたいのなら、その人と仲良くなればいい。その人の友だちになれば、本当に彼が必要としているものが何なのかわかる。彼のために何をすべきかという思考もよく働く。
「貧しい国」にできることは何かあるだろうか?と考えている人がいたら、このステップを参考にしてほしい。
ステップ1:「貧しい国」であるという発想を捨てる
いきなり何を言っているのか、と思われるかもしれないが、実は、これは非常に大事なステップだろう。もし、あなたが何かを誰かのためにやりたいと考えているなら、その相手を尊重することだ。誰かに親切をしてもらった時を想像してみてほしい。その相手から『貧しい人に救いの手を差し伸べた』と思われるのか、 『困っていたから、助けた』と考えられるのか。どちらの方が気持ちがよいのか考えてみよう。
ステップ2:「貧しい国」が何を求めているのかを知る
「貧しい国」だから、きっと食べるものやワクチンが欲しいのだろう。こう考えて、それ以上調べようとしない人がいる。それがいいのか悪いのかはわからないが、 効率的ではない。本当に、「貧しい国」のために何かがしたいと思うのなら、現状を把握する以外に通る道はない。では、私たちにできることとは、なんなのか。
・実際に「貧しい国」を訪れている人に話を聞く
・実際に「貧しい国」を訪れてみる
この二つが有効だろう。残念ながら、今の段階で、「貧しい国」についてインターネットで手に入れられる情報は、非常に少ない。少ないだけではなく、全体の一部にしか焦点を当てていない。限られた字数でユーザーに大きな印象を残すために、「かわいそう」な一面ばかり強調しているwebサイトは、いくらでもある。
ステップ3:自分ができることと、「貧しい国」の人が求めているものの重なる部分を行動に移す
「貧しい国」について行動をしていると、こんな気持ちになりがちだ。『私は、「貧しい国」の人々のために、いいことをしてあげている。』このような気持ちにはならないで欲しい。もちろんよい行いをしているのだが、してあげているという発想は、何かしらの見返りを無意識の内に期待してしまう。それならば、最初から見返りを受け取れる形で行動をしていけばいいだろう。例えば、「貧しい国」の人が職業を手に入れられるように、就職サポートセンターを運営する。その運営費の何割かは自分が報酬としてもらう。この発想は、非常に大事だ。あなたが、継続的にその活動を行うのであれば、必ず、“やる気”を維持する必要がある。それを喚起してくれるシステムは組み込むことをお勧めしたい。
シエラレオネは、アフリカの西部に位置する国だ。この国は、「世界一貧しい国」として語られることが多々ある。その理由には、こんなものがある。
・紛争ダイヤモンドが大きなインパクトを与えている
・書籍『世界で一番いのちの短い国』の影響力
・「世界で一番貧しい国」というフレーズでブログを書く人が多い
実際に、シエラレオネが世界一貧しい国なのか。イメージでなんとなく「世界一貧しい」という言い方をしてしまっている人がいる。たしかにそう思ってしまう気持ちはわかるが、少し残念だ。
貧しい国の子どもたちについて考えてみよう。ただし、「貧しいと考えれている国に住む子どもたち」と言った方がよさそうだ。どの国を「貧しい」とするのか について色んな意見はあるだろうが、最初に、GDPのランキングで出てきた国を、仮に「貧しい国」として、実体験に基づく話をしよう。(あくまでも、 GDPという指標を使った場合)
リベリアを旅していた時のこと。乗り合いタクシーには、リベリア人の子ども(幼稚園生くらいの年頃)が同乗していた。もちろん、その親も。タクシーは、道中で、何度か休憩を取る。ぎゅうぎゅう詰めになっている人々は、この瞬間に新鮮な空気を吸うことができる。その時、子どもとその親は、道の脇にある露天へ と向かっていった。帰ってきた子どもの手には、ビスケットの袋が。中には薄っぺらいビスケットが2〜3枚入っている。その子どもは、私に向かって手を伸ばす。手には、ビスケットのかけらがにぎられている。さっきまで、話しかけても、恥ずかしがって目も合わせなかった、いわゆる「貧しい国」リベリアの子どもが、今では、大人らしい一面を見せている。
シエラレオネを旅していた時のこと。通りに出ている露天で、何か食べることにした。クーラーボックスのようなものを地面に置き、それの裏に、イスを据えて 座っているのは、母親と子ども。その子どもは、小学校の高学年くらいだろうか。『これは、何ですか?』と、ドーナツのようなものを指差し尋ねる。母親の方に尋ねたつもりだったが、子どもがはっきりとした口調で答えた。あまりにも、テキパキと商売をこなすもので、何と答えたか覚えていない。「貧しい国」シエラレオネで、優れた商売の感覚を持った子どもに出会った。
ジンバブエでも、興味深い子どもに出会った。その子どもは、中学生くらいの年頃であった。ジンバブエで有名な観光地となっているビクトリアフォールズからそう遠くはない道を歩いていると、脇に座っていた子どもが話しかけてきた。子どもと言っても、ちょうど青年になる手前くらいだろう。その子どもが私に話しかけてきた内容というのが、このようなもの。
『自分でデザインしたシャツを売っているんだ、買ってくれないか?』私は、遠慮した。しかし、彼が他の人と違っている事に気がつくと、急に興味が湧いてきた。通りを歩いていて、物を買うように話しかけてくる地元の子どもはよくいる。だが、この子どもは違っていて、隣の国から、商売のためにジンバブエに入国しているという。しかも、兄と二人だけで。兄とも話をした。 二人とも商売に対して、非常に積極的で、面白い。現在でも、連絡を取り合っている。「貧しい国」ジンバブエで、積極性とアートの才能を持った子ども(ビジネスパートナー)に出会った。
貧しい国のこどもたちがかわいそうなのか。これについての意見も分かれるところ。「かわいそう」だと考えている人にその理由を聞いてみると、しっか りとした根拠を持っている場合が多い。その国の経済がどのような状況で、どのような教育水準で・・・という様に話が展開される。しかし、データだけで、 「貧しい国」の子どもが、かわいそうかどうか、判断できるものなのか。
いわゆる「貧しい国」は、インターネットの環境が整備されていないことが多い。なので、その「貧しい国」の子どもがどのような生活を送っているかの情報を手に入れることが難しい。情報の入手先と言ったら、国際NGOやCM、ドキュメンタリーやテレビ番組になってしまう。その時に何が起きるのか。メディアが選んだ情報しか私たちには入って来ない。
“誰でも情報を発信する側になれる”という可能性は、昨今どんどんと高まっている。YoutubeやFacebookがその典型だろう。そのような社会の中で、情報は簡単に手に入れられる私たち。「貧しい国」の子どもたちについての情報も難なく手に入れられるような錯覚に陥っているのかもしれない。
実際に、見ていて「かわいそう」だと思う生活をしている子どもは何人も見てきた。ただし、それは、“苦しい生活をしている”という意味には、必ずしもならない。「かわいそうな子どもたち」という言い方自体が、客観的に見ている私の中にある感情に過ぎない。「かわいそう」と思ったとしても、当の子どもは楽しく生活しているかもしれない。楽しく生活しているのに、「かわいそうな子ども」としてテレビで紹介される事の方が、よっぽどかわいそうだ。